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桃太郎伝説は古事記から始まる

 桃太郎の神話は日本で一番古い書物の古事記に記してあります。その話を最初に物語ってなぜお伽噺(とぎばなし)の桃大郎さんが神社にお祀(まつ)りしてあるかをお話いたします。

 天地が開けた神代の昔イザナギ・イザナミと云う夫婦の神様が現れ日本の国土を造り、またこれを支配する神々をお産みになりました。ところが女神はまもなく黄泉(よみ)という国へ去ってしまわれました。男神は大変悲しみ後を慕って黄泉の国まで訪ねて行かれまして女神の居られる所へ入っていきますと、こわ、いかに女神は見るも気味の悪い姿に変っておられましたので男神はびっくりして逃げ出されました。
 するとみにくい姿を見られた女神は怒ってシコメ軍という黄泉の国の鬼共を呼び集めて男神を追いかけて捕えよと命じました。
 男神は十拳(とつか)の剣を抜いて後手にふりつつ黄泉比良坂(よもつひらさか)とう所まで退いてこられました。見るとそこに大きな桃の木があって桃がたくさんなっていましたので男神はその桃の実をとって鬼共めがけて投げつけられますとどうしたことか鬼共は頭をかかえて一目散に逃げ帰ってしまいました。男神は桃の実のおかげで思わぬ危難をまぬがれることができましたので大層喜ばれ桃の実に大神実命(おおかむづみのみこと)という御神名を賜ると同時にこれから後の世の人々が、若し私の様なめにあって苦しむことがあったらお前行って助けてやってくれよとおたのみになりました。
 後に其の桃の実が桃太郎に生れ変って来て人々を苦しめる鬼共を退じられたというのが日本ラインの伝説でありまして、この日本ラインには今も桃太郎の話にある言葉が何一つ不足なく山や村の名となって昔から伝え残されていますからこれを物語ってみます。


日本ライン桃太郎伝説

 昔々その昔、木曽川のほとりに粟栖(くりす)という村がありました。現在の犬山城から三キロ程山奥です。その山里にお爺さんとお婆さんが仲よく住んでおりました。まことに情ぶかい正直ものでありましたから村人からも慕われておりましたが淋しい事に子供がありませんのでお爺さんは山へ柴刈りに、お婆さんは川へ洗濯に行って一生懸命働きながらどうか私らに一人よい子供が授かりますようにと願っていました。

川から大きな桃が −桃太郎誕生−

 ある日のこといつものようにお婆さんが洗濯岩の上で洗濯しておりますと大きな桃が流れてきました。今でもこの日本ラインの沿岸には桃林が沢山あり上流には大桃(だいとう)という所もあります。お婆さんのそばへ流れて来た桃もたぶんこの大桃附近から流れ来たものと思われます。「おお珍らしい大きな桃じゃわいお爺さんと二人で食べましょう」と洗濯物と一緒に持ち帰りました。しばらくして柴を背負ったお爺さんがやっこらさ、と帰って来ましたお婆さんは「お爺さんさぞ疲れやんしたろう、さあ、きょうはいいものが有るぞえ」と云いながら先程の桃を出してきて切らうとしますとこれは不思議、突然、桃の中で声がしたと思うと桃はひとりでに割れて中からまるまる太った男の子が生れ出ました。腰を抜かさんばかりに驚いた二人はやがて神様がお授けくださったのに違いないと、手をとり合って喜びあい桃から生れたので桃太郎と名付けて大事に育てました。

乳母の懐に土田(可児市)の子供を抱いた母が

 桃太郎は年とともにぐんぐん力もちになりました。
 或日お爺さんの柴刈りの手伝いをしながら山奥へ入って行きますと子供をふところに抱いた女達が肩を寄せ合ってシクシク泣いているのです。なさけ深い桃太郎がやさしくわけを尋ねますと、「私達はこの山向うの土田村(どたむら)の百姓ですが可児(かに)川の中の鬼ケ島にすむ鬼共が近郷近在を荒し廻り女・子供をさらって行きますのでこうして可愛い子供を抱いてかくれておりますが今に見つけ出されてひどい目に合わされるのではないかと思うと恐ろしくて生きた心地もしません。どうか助けてください。」と話しました 。ここは今も乳母(うば)の懐(ふところ)と呼ばれております。そして可児川(かにがわ)には鬼ケ島と呼ぶ島があります。

きびだんごを持って鬼退治に

 そこで桃太郎は鬼征伐の決心をしてお爺さんお婆さんに話しますと、日頃桃太郎の強い事を知っておりますので大賛成して早速、土地の名物きびだんごを兵糧(ひょうろう)として沢山作ってくれました。桃太郎はそのきびだんごを網袋(あみぶくろ)に入れて腰にさげ、日本一と書いた小旗を立てて勇んで家を出掛けました。日本一の旗をひらめかして進む姿は実に勇ましく見えました。此の道を旗がひらと云います。また桃太郎の無事を祈ってお爺さんお婆さんがこもったと云う断食(だんじき)の洞窟(どうくつ)も裏山に残っております。


イヌ、サル、キジがお供に

 さて桃太郎の出陣を知って息せき切って馳けつけたのが日頃仲よしのイヌです。このイヌがすんでいた所が犬山(市)です。これはよいお供が出来たと桃太郎は喜んできびだんごを一つやりました。すこし行くと此度は附近の崖から大きなサルがのっそり現われ仲間に加わりました。この辺には猿洞(さるぼら)や猿渡(さるわた)りという所が有ります。桃太郎は「イヌと仲よくするんだよ」と云いながらこのサルにもきびだんごをやりました。ここから先はもう道がないので木曽川を対岸へ渡り川づたいに上流へ進むことにして桃太郎は船に乗り込みました。いよいよ綱(つな)を切ってこぎ出しますと今度は山のてっぺんからぱたぱたと羽音も勇ましく一匹のキジが船へ舞い降りてきました。桃太郎はこれにもきびだんごをやりました。このキジのすんでいた山は今も堆ケ棚(きじがたな)と云います。こうして桃太郎とイヌ・サル・キジのお供を乗せた船はまもなく向う岸へ無事つきました。ここも現在古渡(ふるわた)しと呼んでいます。ここから鬼ケ島までは八キロ程です。

坂祝町から合戦始まる

 しばらく前進しますと急にイヌがはげしくほえたてました。すると川端の岩かげから大きな鬼が四・五匹とび出してむかって来ました。ここは今も敵がくれと呼ばれております。両軍たちまち取っくみ合いの戦がはじまりました。この時かたわらの山から沢山の大ザル小ザルが滑り降りてきて桃太郎に加勢し附近の村人も助太刀に馳けつけたのでこの辺にはサルすべりや助の山(すけやま)などという面白い名前の山があります、思いがけない伏兵に鬼はさんざんやられとうとう逃げて行ってしまいました前戦(まえいくさ)に勝った一行は山の上へ登って勢よく勝関(かちどき)をあげたので今もそのふもとの村を勝山(かつやま)村取り組み合いをした所を取組(とりくみ)村と呼んでおります。

桃太郎が川を今渡った

 桃太郎はそれから深田(ふかた)、太田(おおた)、今はいづれも町や村の名になっておりますがこの沼や田を越え木曽川を渡っていよいよ敵の本陣、鬼ケ島へ攻め進みました。鬼ケ島は現在も可児川の真中にあり名鉄広見線可児川駅の手前にあって電車の窓からよく見えます。昔の正確な地図にも鬼ケ島と記され古文書によれば、この島に住む悪者によって附近の住民は非常に難儀な目に合った……という記録がのこっております。さてキジが上空から偵察して進路を教えますが、島は奇岩怪石が重なり毒気の湧く井戸や落し穴がありそのうえ雲をつくような大樹が密生していてどこに鬼が居るのか外からでは全くわかりません。しかし厳重に見張りをしていた鬼の方では桃太郎を見つけるとただちに、桃太郎軍が川を今渡(いまわた)って島へ攻め込んだぞと仲間に知らせました。この地は今渡りと呼び現在は町になっております。

桃太郎 鬼退治 凱旋で祝ったところが坂祝

 たちまち猛然とおどりかかって来る鬼共目がけて勇敢に立ち向う桃太郎をたすけてイヌ、サル、キジが大活躍しました。イヌは鬼に投げつける石を沢山あつめてきました。サルは木から木へとび移りながら見つけ次第、鬼に噛みつきました、キジは高い所から戦場全体に目をくばり急降下しては攻撃を加えたということでこのあたりには、犬石(いぬいし)・推ケ峰(きじがみね)・猿噛城祉(さるはみじょうし)などの珍らしい地名がいくつも残つております。
 こうしてさすがの鬼共も降参しました、もう決して悪いことはしませんと改心したしるしに宝物を全部さし出しました。桃太郎の一行は宝物を車に積んでめでたく帰路につきました。途中の村々では大喜びで倉から酒を出して凱旋(がいせん)を祝ったと云うことです。酒倉(さかぐら)のあった所を酒倉村、祝った所を坂祝(さかほぎ)村と今も呼んでおります。

宝を積んで村人に報告したのが宝積寺

 いよいよ一行は粟栖の対岸まで来ると一旦この地に宝物を積んで、集った人々に鬼退治の報告をしました。この地を宝積地(ほうしゃくじ)村と云います。後に大勝山宝積寺(だいしょうざんほうしゃくじ)と云う寺も出来ましたが現在は坂祝村の方へ移されて残っております。

無事 おじいさんおばあさんの元に

 こうして立派に目的を果し沢山の宝物をおみやげに無事我が家へ帰った桃太郎はイヌ・サル・キジのお供にもそれぞれ宝物を分け与え其の忠勤を謝してひまをやりました。イヌは犬帰(いぬがえ)りという所の岩門をくぐって、犬山(市)へ、サルは猿洞(さるぼら)、キジは堆ケ棚(きじがたな)へと帰って行きました。

その後の桃太郎 神様に

 その後村々には平和な日が続きました。桃太郎はお爺さんお婆さんに孝養をつくし二人共やすらかに天寿を全うすると、もう私の役目もすんだというように近くの山へ登ってそれっきり姿をかくしてしまいました。それ以来村人は桃太郎の姿を二度と見る事が出来なくなりましたが不思議な事にその山の姿がだんだん桃のような形に見えてきました村人は驚いて、さては桃太郎さんは桃の神様の生まれかわりであったのか、そして子供の姿となって此地へ現れ人々を苦しめる鬼共を退治してくださったのに違いない、とその山を桃山(ももやま)と呼んで崇拝するようになりました。その後この山の麓に小さなお社を作って桃太郎さんをおまつりしました。

鬼ケ島の近くは平和になって春里に

 また鬼ケ島の近くの村でも平和に暮すことの出来るのは桃太郎さんのお蔭で、鬼がいなくなってからは春のようなのどかな日が来たと喜び、春里村になりました。桃太郎の生れ出た桃を貰い受けて桃塚(ももづか)を作り永く其の徳をたたえ感謝したということで今も鬼ケ島の近くの前波(まえなみ)という村に桃塚が遺っております。

桃太郎神社 キジがお導き今の地に

 それから何百年かの歳月が流れました桃山の麓の神様は子供の守り神とあがめられ子供の背丈(せたけ)の御幣(ごへい)を供えると其の子は桃太郎さんの様に丈夫に育つと伝えられ村人は無論のことずいぶん遠方からもお詣りに来るようになりましたそして昭和になりこの土地を研究する人達によって古い云い伝えが次々と発見され次第に世間にも伝って日本ラインの桃太郎と云えば外誌にものせられる程有名になりましたが山奥で道も狭いのでもっと参拝に便利な地へお遷(うつ)ししたいと村人が相談していますと突然、桃山から一羽のキジが飛び立ち一キロ程南の山へ降りました。
 そこは昔から桃太郎さんの古屋敷と呼んでお爺さんお婆さんの屋敷あとが有る所です。そこでこれは御神意によるものとしてその山にお宮をこしらえ昭和五年にお遷し申したのが今の桃太郎神社であります。この時あたかもこれを迎える様に沢山のおサルが山から出て来て其の奇瑞は人々を驚かせました。

毎年5月5日に桃太郎まつり

 桃太郎神社は国定公園木曽川の中でも最も景色のよい日本ラインの中心地にあります。ライン下りの方も下船場上流2kmの桃太郎神社へ参拝してください。宝物館にはきびだんごを作ったという大昔の臼(うす)や杵(きね)やねり鉢をはじめ鬼のミイラやガイコツの写真など珍らしい資料が沢山展示され大人にも子供にも興味深く学生は無論のこと、各地から見学者がおとづれます。尚この桃太郎神社の宝物は京都二條城に於ける日本の名宝展をはじめ各地の展覧会やテレビに出品し学習雑誌にも紹介されて好評を博しております。

◎桃太郎まつりは五月五日の子供の日に桃太郎に扮した子供達によって行われます。


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